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ダライラマやマスコミの語る、チベット情報は嘘と誤りだらけです。 正しい情報を知ってマスコミの印象操作に騙されないようにしましょう。
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    転載「ダライラマは本当に法王なのか?」



    <ダライ・ラマ法王をチベット全土の政教両面に渡る最高指導者とする体制が確立され、チベットは平和な宗教国家として、新たな道を歩み始めることになったのである。>



    http://bismarks1976.blog92.fc2.com/blog-entry-2.html

    ここの記述は、あくまでも自称である。
    17世紀にモンゴルのアルタイ・ハンがダライラマという名称を作った事実はあるが、最高指導者と規定した根拠は一つとしてない。

     何より、このダライラマという名称の怪しさの局地は、アルタイ・ハンがダライラマという名称を与えてから、ゲルク派が宗派としての立場強化のために、ゲルク派の始祖をダライラマ1世としたことに問題点がある。
     アルタイ・ハンが1世・2世という取り扱いを認めているわけではないのである。



    「チベット仏教の最高指導者としての権威性の根源はダライラマにあるのか?」といえば、そのような規定はどこにもない。
    あくまでも”自称”に過ぎないのである。
     現実にダライラマの宗教的権威性は別にしてもダライラマ体制が政治的権力があったという証明はどこにもないし、証明作業さえ行われていない。
    ダライラマ事務所の「チベットの歴史」という項目でも、ダライラマ体制の政治について語られていない。
     チベットは8世紀中盤には歴史文献が登場するはずであるし、文化大革命の影響で歴史書が散逸するにしても全部無くなるとは想定できるものではない。


     ダライラマ体制なるチベットの支配体制の歴史などそもそも存在していた証拠もないのである。

     形式的に外交窓口としてのダライラマの権威性は、当時のチベット仏教最大派閥のゲルク派トップとして存在していたかもしれないが、チベット仏教の各派ともダライラマをトップと認めたわけでもないのである。 




     そして、もっとも危惧するべきは、ダライ体制という時代があったとして「平和であった」という事実関係である。
     たびたびお世話になるWIKIなので是非、興味ある方はブックマークをお勧めしますが
    チベット史年表 〜さんからダライ治世の血生臭い歴史を紐解きましょう。
    ダライラマ4世時代
    ・1605年
    モンゴルからチベットまでダライラマを護衛してきたモンゴル人騎兵、カルマ紅帽派を襲撃
    ツァン派首長でカルマ派の支持者だったカルマ・テンスン・ワンポが大軍を率いてモンゴル兵を駆逐カルマ派,シンシャクパにゲルク派施主層を襲わせる
    デープン寺兜率宮の強硬派、紅帽派がダライラマの出家剃髪などに対して寄せた祝辞に悪意が寓されているとして、モンゴル人を唆し、紅帽派の牲畜を奪わせる。これに対し当時の名目上の政府であったパクモドゥ氏とツァン軍が、兜率宮と共謀していたキシュ管領の軍を破り、甚大な損害を与える
    ダライラマ5世の時代
    ・1642年
    グシ汗、チベット王の位に就く
    グシ汗、ダライラマを推戴し、自らはチベット国王の座に登り、ソナム・チュンペーをデスィーに任命。ここにモンゴル人による全チベットの覇王が実現

    グシ・ハーン、チベット全土を平定し、チベットの支配権を正式にダライラマに献上
    ・1644年
    モン族僧院群・ブータン間の紛争をグシ汗とソナム・チュンペルが調査。
    モンへの援軍としてブータンに700のモンゴル兵とチベット軍を派遣するが敗走。
    ダライラマ政権、ブータン攻撃
    ・1647年
    ブータンとの間に再度戦争(チベット・ブータン間では日常茶飯事ではあるが)
    ・1661年
    ネパールとの間に国境紛争。チベット軍が派遣され、ネパール人暴徒を駆逐(ネパールとの最初の衝突)

    ゲルク派に抵抗する勢力をモンゴル人に駆逐させたり、ブータン・ネパールなどに侵攻するダライラマ体制が「平和な宗教国家」でしょうか?

    <④チベット仏教は、モンゴル、満州、そして北京にまで広まり、アジア大陸の広範な地域で文化交流が盛んになったのである。>
     事実を歪曲している。
    当時に明王朝は決して交流政策ではなく、鎖国政策であったし、アジアの大航海時代はまだ先の話である。
    そもそも、この時代もチベットの歴史は、モンゴル人とチベット人による支配二重構造であり、混乱した時代である。
     そして、チベット仏教がモンゴル・中国に普及するのは、サキャ派時代であり、ダライラマ体制という論拠は一つとし存在しない。
     パスパとフラビイの関係はモンゴル・中国のチベット仏教の関係構築に貢献としたことは否定しようがないが、それ以後、中国支配者はチベット仏教に改修したこともないし、チベット仏教信者が中国で増えたわけでもない。
    モンゴルの有力者がチベット高原侵略後に改宗しているが、彼らはチベット仏教でもゲルク派ではない。
    (補足的意見)


    「チベット仏教」=「ラマ教」=「ボン教」のような非常に乱暴な見解があるが、この妥当性に関しての嫌疑は非常に多いし、学術的には、分岐がされている。


    細かい分岐であるという指摘もあるが、チベット仏教=密教、という考え方に関しても妥当性がないという識者は多数存在する。


    文中でも話に上った「九塞溝」などはその典型例で
    「安易な理解が誤解を生んだ典型例」で言えるだろう。
    そもそも、乱暴な言説において、”チベット仏教をカテゴライズ・定義できるものではない”問題がある。


    イスラム教のシーア派・スンナ派などは実態としても思想的にも明確な相違点があるにも関わらず、乱暴に同じように扱われる部分などは「乱暴な言説」の象徴性だろう。


     チベット仏教も「チベット」もそもそも乱暴な言説による乱暴な見解で固まっているものが圧倒的である。それを助長するのが、ダライラマ事務所や中国当局が発するロビー情報である。

    本サイトでは可能なだけ中立性の持つことに主眼をおいているが、


    ダライラマの虚偽性・欺瞞性は筆舌を挫くほど破廉恥であり、
    一般社会のチベット理解をミスリーディングしていると看破する必要性があるだろう。 





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